コロナ禍で失ってしまったうれしい気持ち。リスクを避けるよりもあたたかさを感じていたいと思ったできごと。

隣に住むおばあちゃんとばったり玄関前で会いました。

おばあちゃんは、近所に住む息子家族に夕ご飯のおかずをつくってあげるために、これから買い出しにいくところらしい。

おもわず、「いいなあ〜!」という心の声ががっつり出てしまいました。

 

実家との行き来があること。実家の味がいただけること。

コロナ禍で、実家とある程度の距離があると、こんなことがものすごくうらやましいです。

 

1歳の息子がぐずってきたので、長話することなく家に帰ったのですが、夕方になってピンポーンとチャイムが。お隣のおばあちゃんでした。

「ほんの1人前だけど、おすそわけ。」

息子家族に届けるおかずを、わざわざわが家にも持ってきてくれたのでした。

 

まだ少し温かいからあげに餃子。それから大きなおいなりさん3つ。

さっき「いいな〜!」と言ってしまったから気をつかわせちゃったかな?という気持ちと、私たちの分まで作って届けてくれたのだという嬉しい気持ち。

それから、「あれ、大丈夫?」という不安な気持ち。

 

そうだ、今はコロナ禍。

お隣に住んでいるとはいえ、偶然会えば立ち話をする程度の人。これって食べて大丈夫?もしコロナだったら?

こんなことを考えてしまうのは失礼だと思い直しておいしそうなお弁当を見つめるも、湧き出てしまった不安は残る。

 

あなただったら食べますか? 月に数回、顔を合わせれば挨拶するくらいの、お隣のおばあちゃんが作ってくれたおかず。

 

コロナ禍でなかったら、「これ食べて大丈夫?」なんて思わなかった。

コロナ禍でなければ、お隣のおばあちゃんの優しさに、心(と、おなか)を満たされて、あたたかい気持ちにひたれたはず。

 

コロナは怖いけど、コロナそれ自体が怖いのはもちろんなんだけど、

今まで「嬉しい」と感じてたことに対してまでも「不安」を感じるようになってしまったことに気づいて、こんなんでいいのかなっていう気持ちになりました。

 

 

お隣のおばあちゃんにいただいたお弁当、わが家はおいしくいただきました。

リスクを避けるのであれば、食べない方が良かったのかもしれません。

でも、今まで嬉しいと感じていたはずのことにまで不安になって、人のあたたかさを感じられなくなってしまう方が、わたしは怖いです。

なにかと敏感になってしまうご時世だけれど、ゼロリスクというものはあり得ないのだから、できる範囲でリスクは避けつつも、人のあたたかさを感じられる自分でありたいです。

 

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